プロジェクト・ムーの遍歴

​ここでは、プロジェクト・ムーの成り立ちと、およそ20年の遍歴を振り返りたいと思います。

0、プロジェクト・ムーの成り立ち

それまで、岸田理生との共同作業として、「哥以劇場」「岸田理生事務所」「岸田事務所+楽天団」と三つの劇団を作り、壊してきたが、1994年以降は、「岸田理生カンパニー」という名前で、もっとゆるやかなユニットでの共同作業に入った。
このユニットは、蜷川幸雄や太田省吾、オン・ケンセンと共同作業をしたり、「円」や「演劇集団 風」などに書き下ろしていた岸田の晩年の集団で、他ではできない岸田自身の最もやりたい作品を年に一度のペースで行うプロジェクトだった。
その為私たち役者は、それ以外の時間は他の劇団に客演したり、それぞれがやりたい芝居を企画したりしていた。
プロジェクト・ムーの成り立ちは、岸田事務所+楽天団の最後の頃、劇団員が自由に作品を持ち込んで劇団内で発表会をやった時に、当時若手だった石井伸也さんが、理生さんに相談したところ「じゃあ、ゴド待ちでもやってみたら?」との助言を受け、彼なりに考えた末、相手役に私を選んで誘ってくれたのが始まりだった。
最初の発表会では、二人の他に女優二人も加わり、「ゴドーを待ちながら」のワンシーンと太田省吾の「裸足のフーガ」のワンシーンを軸に構成したものだった。
この発表会の成功に気をよくした石井は、翌年の夏に今度はウラジミールとエストラゴンの部分だけのゴド待ちを、再び劇団員相手に発表した。ウラジミールは私でエストラゴンが石井だったが、演出はいなかったので、二人だけで稽古をしてなんとかやり遂げた。
劇団が解散してからしばらくして、理生さん以外の作品をやろうと思った私は、今度は石井を誘って、このゴド待ちを英語版でやってみようと思った。二人とも英語は全くヘタだったが、糸地獄のオーストラリア公演などの経験で、英語に対する恐怖感は少なくなっていた。それにベケットはこの作品を英語とフランス語で書いていたのだから、その原文通りにやる意味はあると思ったのだ。
英語版の初演はストライプハウス美術館の地下で、真ん中にある階段部分に、人形作家の水根あずさが作った「木のモニュメント」を置き、闖入者の代わりにヴラジミール・ヴィソツキの音楽を流して上演した。
その頃、相鉄本多劇場で、火曜シリーズという企画があって、あまり劇場の利用がない火曜日を割安で貸してくれるというので、今度は闖入者に英語圏の女優さんに入ってもらい、一幕では彼女に英語でラッキーのセリフを機関銃のように叫んでもらい、二幕では同じ彼女に韓国語で叫んでもらった。モニュメントも大きくして、それを巨大な十字架に架けて、照明も武藤聡さんに頼んでやってもらった。
公演はなかなか好評だったが、次の展開をどうしようかいうのが問題だった。
そんな時、アメリカの演劇人スーザン・ソンダクが、紛争中のサラエボで現地の人々を使って「サラエボでゴドーを待ちながら」を上演したというニュースが入ってきた。
英語でやる事で演劇での言葉の壁を壊したと満足していた私は、それを知って茫然としてしまった。しばらく何も考えられないでいた私だが、ある時気が付いた。ソンダクのような事は私には無理だが、ドメスティックでも壁を破る事はできるハズだ。そして私の出した答えは「手話」を使って上演する事だった。
それから私は二年間手話を習い、今度は「ゴドーを待ちながら-手話を使って」のタイトルで上演する事にした。
場所は木場にある「木のアトリウム」。ウラジミールとエストラゴンは私と石井のままだが、タイトル通り手話を使っての公演だった。
闖入者は一幕では日本聾者劇団のササちゃんという女優に手話でラッキーの長ゼリをやってもらい、二幕では盲聾者(目も耳も聞こえないので、こちらの手話を触ってもらってコミュニケーションを取った)のタコウさんに表現してもらった。音楽も石母田さん達にお願いして小さなカーニバルとなった。
公演の評価は賛否両論だったが、私としては大満足の公演となった。
そして終演後、私は石母田さんと石井に言ったのだ。「しばらくの間、ゴド待ちは封印しよう。次にやるとしたら1999年の7月。日本語で全編通してそれを最終版にする。」と。

1、1999年7月 ゴドーを待ちながら

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岸田理生カンパニーの時代は、だいたい年に一回のペースで岸田の作品を上演していたが、その他の時間は別の劇団に客演をしたりして過ごしていた。
そんな中、東京演劇集団 風の「桜の園」に老人役で出演した事があった。その役作りの為にカツラを作ってもらうべく、ある美容室を訪ねた時だった。
その美容室は新大久保の東京グローブ座の裏手にある、西戸山タワーホームズと言う三棟の高層ビルの地下にあった。美容室を訪ねるとその店の前が円形の広場になっていて、まるで円形劇場のようにすり鉢状の客席まで作られていたのだった。
そこで私は、美容室の社長におずおずと尋ねてみた。「あのー、前の円形の広場って使わせてもらえないんですか?」「いや、夏祭りやったり、写真撮影に貸したりしてるけど、お芝居はどうかなー?でも管理してるのは、西戸山開発という会社で、担当の野上さんを紹介してあげるから聞いてみたら」「是非お願いします!」
といういことで、野上さんを訪ねてお話しをさせてもらうと、意外にも簡単に貸してくれると言う。しかも一日2万円でいいらしい。但しこの場所が広域避難区域に指定されているので、夜中はモノを置きっぱなしにはできないとの事、また正式にはこの場所の所有は、マンションの住人なので、自治会の理事会の承認を得ないとダメなのだと言う。
そこで改めて企画書を書いて理事会に諮ってもらい、2か月後にその承認を得た。
巨大な三棟のマンションのふもとにある野外円形劇場で、その借景を使えば世紀末のゴド待ちにはピッタリの劇場で、もうそれだけでワクワクしてしまった。
共演の石井を下見(公園なのでいつでも見られる)に誘うと、上野昌子さんというスタッフ(写真が本業)も連れていくと言う。なにしろ予算も全くないし、毎晩道具をバラさなくてはならないので、普通の装置や照明は使えない。逆にこの場所自体がそのままセットであり、薄暮から始めれば中央にどんど焼きを一個置いたり、映像を移したりすれば、それだけで決まりそうだと思った。
次に闖入者のポッツォとラッキー役を考えなくてはいけなかったが、これもポッツォにピッタリの高田恵篤さんが偶然その時期空いていたし、ラッキーには椿組などで野外劇の経験豊かな田渕正博さんが出演してくれる事になった。音楽も石母田さんに相談すると8人くらいの楽隊を作って登場してくれると言う。少年役にはダウン症のダンサー矢萩竜太郎君にお願いする事にした。
実は前回の「ゴドーを待ちながら-手話を使って」の公演前に、「中島夏と、とんでも舞踏団」の、みなとみらいの特設テントを使った公演に、チラシを折り込みがてら見に行って、その素晴らしさに驚嘆してしまったのだ。
あまりのショックに、夏さんにお願いして彼らのワークショップに参加するようになり、武尊の夏合宿にも二年続けて参加させてもらったし、夏さんが別に開いているダンスワークにも参加していた。その中の杉並クラスに竜ちゃん(矢萩竜太郎)がいて、彼の両親ともども仲良くなっていたので、少年役に誘ったのだ。
また、そのワークショップを通して意気投合していた、ダンサーの早川ゆかりさんに受付をやってもらったし、上野さんには映像を担当してもらった。野上さんからは階上に置ける巨大な松明(ガス)を二台貸してもらい、唯一の贅沢として、巨大バルーンを一個空中に浮かせた。闖入者二人はバイクに乗って登場するわ、楽隊は客席を練り歩くわで、かなり破天荒な構成になった。
ところが初日の本番のまさに開演時間に、突然夕立に見舞われた。仕方なしに一人舞台に出て、「ちょっとこの状況では上演できないので、皆さん屋根のある方へ避難して下さい。夕立なのですぐやむと思いますから、そうしたら始めたいと思います。」と言った、実際、演じる側もさることながら、お客さんがびしょ濡れになってしまいそうだったのだ。
およそ30分後に雨も収まり、なんとか公演をする事ができた。とんでもないハプニングに緊張している暇もなく演じられた。お客さんからも、雨もまたよかったとの反応がたくさん寄せられた。
ネットの掲示板で知り合った手話関係のお友達もたくさん来てくれたし、竜ちゃんのお父様からは、なんとご祝儀まで頂いた。
それに今となっては貴重な経験なのだが、作家の川上弘美さんと、吉岡忍さん(奇遇にも彼はこのマンションの住人だった)が見に来てくれて、感想の手紙まで頂いた事だ。
なによりも参加してくれた人達が楽しんでくれたのが大収穫だった。そしてこれがプロジェクト・ムーとしての旗揚げ公演となったのだ。

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2、Pre-stage vol.1「パリコンジュ」

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この頃の私は、新しい企画をどう始めればいいのか分からず、試行錯誤の連続だった。手話仲間とのオフ会をやったり、夏さんのクラスの代理講師をやったり、文章を書く修行の為に、コンビニでのできごとを書いたり、それを文芸山脈というネット同人誌に投稿したりして、さまざまなネットワークに触手を伸ばしたいた。
旧劇団の仲間とは年に一回の岸田理生カンパニーでの公演があったが、別の仲間を見つける必要もあった。そんな中で、ネット経由で知り合い、夏さんのクラスに誘った早川ゆかりさんがいた。
彼女はおよそ10年前までは一線のダンサーだったのだが、結婚を機に舞台からは遠ざかっていて。その後出産にまつわる臨死体験を経て人生観が変わり、もう一度ダンスを始めようとしていた。
何度かお会いして話を聞くうちに、この人となら何か小さな舞台がやれそうな気がして、ゴド待ちの野外劇で受付を手伝ってもらい、その後翌年の3月末に試演会をするという、具体的な目標を持って打ち合わせと稽古を始めた。
丁度同じ頃、夏さんが世田谷でワークショップを開いて、その参加者(ダウン症の子供たち)の親たちから、世田谷での定例ワークをして欲しいとの申し入れが来ていた。私もゆかりさんも参加するつもりでいたのだが、夏さんが体調を崩して新しい世田谷クラスは維持できないと言われ、仕方がないのでお母さまたちにこう話した。
「夏さんができないと言っているけど、もしその気があるのなら、お母さんたちが主体となって会の運営をしてくれたら、私たちが講師として協力する事はできますよ。」
お母さんたちには喜んでもらえたので、その旨、夏さんに告げると、何故か夏さんは怒り初めた。世田谷クラスを私に取られたと感じたようだった。
そんなドタバタはあったものの、世田谷クラスは「世田谷表現クラブ」の名前で発足した。そしてそのメンバーたちには、いつか一緒に舞台に出て欲しいと思っていた。
その手始めとして、ゆかりさんとの発表会への参加を呼び掛けると、そのうちの二人(若林寛和くんと小泉航くん)が参加してくれるという。
これでこの発表会の企画が出来上がった。タイトルは「パリコンジュ」。パリは韓国語で捨てる(ポリダ)の変形で、コンジュは公主の意味、意訳すると「捨て姫」となり、貴種流浪の物語である。
捨てられた姫をゆかりさんが細やかなダンスで表現する。私は理生さんに昔プレゼントされた、帰ってきた老男娼の一人ゼリフを語る。
ゆかりさんはスレンダーな体を巧みに使って、パリコンジュの悲哀を演じてみせたが、私の方は昔の言い回しに頼りすぎて、少し浮ついてしまう。
出会った二人が徐々に絡んで交流を始め、二人が捨ててきたたものと、それぞれが捨てられた記憶に気が付き、二人だけでは解決できずに、私は逃げ出し、ゆかりさんは悲嘆にくれて去っていく。
暫くの沈黙の後、背後のドアから三人の父親が表れて(このうちの二人をダウン症の少年二人が演じた)、いなくなった娘を探すがどこにも見つからない。
仕方なく酒を飲み、酔っ払い、踊りだす三人。やがて疲れ切ってその場で眠ってしまう。
そこにパリコンジュが現れて、三人を揺り起こす。四人で一緒に戯れて遊び、最後には四人で感謝のダンスを踊って、終了した。
なんという事もないシンプルな構造の舞台だったが、私たちにとっては新鮮な喜びだった。
私とゆかりさんの再出発の舞台だったのだが、二人の演技は以前の殻から抜け出る事はできなかったが、若林くんと小泉くんがそんな二人を救ってくれた。
終演後も彼らの表現を称える声が続出した。「二人の演技が煮詰まったところでの彼らの登場は、ほんとに新鮮だったよ。」などと言われた。
こうしてプロジェクト・ムーは、一つ目の石を積み上げたのだった。

3、Pre-stage vol.2「吾嬬町奇譚 銀河鉄道の夜」

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ゴド待ちの野外劇が終わった後、岸田理生カンパニーとしては「迷子の天使」という作品を上演し、私もそれに出演していた。
そして当日パンフレットに「プロジェクト・ムー大募集」のチラシを折り込んでいた。すると公演終了後に参加したいとの電話があった。
その女性とお会いして「これは私一人で始めるプロジェクトで、岸田理生カンパニーとは別物だよ。」と言ったにもかかわらず参加したいと言う。笠松環さんである。
こちらも「パリコンジュ」と同時進行で、一から作り上げていった。まずは二人で体を動かし、セリフの稽古をする。
新劇の研究所くらいしか経験もなさそうなのに、なかなか上手にセリフを言う。
そこで、こちらの方はセリフ中心の二人芝居にしたいと思って、いろいろと考えていたのだが、以前別の女優さん(あくとれを管理している山本恵美子さん)とやろうと思っていて、彼女の出産の都合で断念していた作品がある事を思い出した。
この作品は「菅間馬鈴薯堂」の菅間勇さんが10年程前に、「元祖演劇の素 いき座」の土井さんと森下さんの為に書いた作品で、当時は「OM2」の真壁茂男さんも友情出演していた作品だ。
娘を水難事故で亡くして、それを救う事が出来なかった後悔の念に苛まれているおじさんと、そこに突然現れる一人の少女の、一時の交流を描いたとても良質な小品だ。
環ちゃんはまるで少年のような演技で、私の初老の演技と好対照をなし、非常にナチュラルな二人芝居が出来上がった。
最後に一瞬だけ出てきて宮沢賢司の言葉を語る男には、真壁さんではなく、石母田さんに歌にしてもらって歌いながら登場してもらった。
運よく、あくとれも安く借りられたし、環ちゃんの知り合いに切り絵作家(前田志津香さん)がいて、彼女にチラシの製作を依頼する。
こよりを鼻に差し込んでクシャミをするシーンがあるのだが、なかなかクシャミがでなくて焦ったところもあったが、まずます満足のいく仕上がりになった。
やはり台本がしっかりしていると、それだけで見ている方も安心できるのだと、改めて思った。
終演後に観客の一人から「クシャミはね。副交感神経を開放しないと、なかなか出ないものなんだよ。」と言われたが、私としてはクシャミが出なければ出ないで、演技を続けられた事の方が嬉しかった。しっとりとした劇の終わり方も良かったと思う。
こうしてプロジェクト・ムーは、二つ目の石を積み上げたのだ。
この年の9月には、昨年同様西戸山野外円形劇場で新作をやるつもりだったので、ゆかりさんと環ちゃんという二人は有力な戦力になってくれそうだった。
恵篤は出演しながら演出もやってくれると言うし、田渕さんも竜ちゃんも参加してくれる。世田谷表現クラブのメンバー(女の子も入れて5人)にも出てもらおう。
そしてそのチラシの為の写真撮影の時、貴重な戦力がやって来た。渡辺敬彦さんである。彼とは以前、石井のプロデュースで横浜美術館前で「典礼の宴」という作品(作 鄭義信、演出 和田喜夫)をやった時以来仲良くなっていて、動けるしセリフも言えるし大助かりだ。
ところがそのプロデューサーだった石井の方が、次は出演しないと言う。それに肝心の私の作品がどうなるか、これが一番の心配の種であった。

4、「ブリッジ」

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前年の「ゴドーを待ちながら」の稽古は、途中まで石井と二人で稽古をして、中盤から恵篤と田渕さんに入ってもらった。
すると、私と石井の稽古を見ていた恵篤が、いろいろと演技のサゼッションをしてくれて、とてもありがたかった。
そこで、打ち上げの時に、恵篤に聞いてみると「実は俺、いろいろと他の演出の元でやってきたんだけど、今は演出をしたいんだよね。」と言う。
「じゃあ、来年の公演は是非演出もしてよ。」という事で、この「ブリッジ」は演出◎高田恵篤という事になった。
私はそれまで温めて来た作品のプランがあったので、なんと初の脚本に挑戦する事になった。
岸田理生と離れて作品を作るにあたって、それまでホームページを使って、コンビニの事を書いたり観劇日記を書いたりして、文章修行をしていたのだが、その中に「向こう側」という作品があった。
これは、私のこれまでの自分史の中で感じた、向こう側と思える出来事を綴った随筆のようなものだった。
川の向こう側、海の向こう側、窓の向こう側、この世の向こう側、男と女の向こう側、などなど、50話ほども書いていた。
なかなか評判もよく、自分でもそれなりに満足していたので、その続篇のような形で「ブリッジ」という、橋の向こう側を書こうと思ったのだ。
なんとか顔合わせまでに脚本を仕上げて、みんなに読んでもらう。私としては自信もないので恥ずかしくて仕方がなかった。
ところが恵篤は、そんな稚拙な私の脚本を、そのままほとんど手を入れずに使ってくれた。
作品のイメージとして詩のようなものも書いたのだが、その稚拙な詩を石母田さんが歌にしてくれた。
もっとも冒頭の私の独白(川の向こう側)はカットされて、私とゆかりさんと世田谷の子供たちとで「フルーツバスケット」をしているシーンになった。
それから中盤で、ストーリーとは関係なく、私が世田谷の子供たちにインタヴューをするシーンを差し込んだり、恵篤が連れて来た二人のダンサーに、大きな幕を前後に移動させて亡霊のイメージを作ったりした。
東京湾にある無人島にタグボートが漂着し、その乗客5人が打ち上げられるシーンから物語は始まる。
サバイバル生活をしていく中で、それぞれが自分の過去や記憶と向き合うことになる。
島は無人島なだけでなく、火山島で地震があったり、幽霊島で亡霊が出たり、宝島で妖精たちがうろうろしたりする。
突然巨大なブリッジが現れて驚くのだが、不思議な事に5人にはそれぞれ幻のブリッジを見た経験があった。
はたしてブリッジの向こう側には何があるのか?
キャッチコピー風に書くとこんな感じで、なにやら漠然としている。
その結果、愛知県の戯曲賞にノミネートされた(これだけでも十分満足したのだが)時にも、ふじたあさや先生に「妖精や亡霊を出したら終わりだね。」との感想を頂いた。
昨年と違って、少々の装置と照明も使い、音楽も石母田さんが担当したが、ほとんどをメンバーの手作業で行った。
ゲネと合わせて三日間、毎日仕込んで本番やってバラシて帰った。炎天下の作業は地獄だったが、その後の酒宴は楽しかった。
メンバー同士の仲はよく、恵篤もよくまとめてくれたので、また来年もやろうという事になった。
みんなの手作業と手弁当のおかげもあって、少し製作費が残ったので、恵篤に演出料を払った。一つ一つの石を積み上げて、ついに塔を完成させた気分だった。

5、「芽」

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「ブリッジ」が終わると、私には何を書いていいのか分からなくなった。ただ次は2001年なので、何かの始まりのような作品にしたいと思い、タイトルを「芽」とした。
そらからは恵篤と会場に行っては、何度も打ち合わせをした。プロットのようなものを書いて読んでもらったり、何をやるのが面白いのか話し合ったりした。
出演者は昨年のメンバーに加えて、石井がまた出たいと言い出し、旧劇団からの付き合いのある戸田二美子さんが参加する。
それから岸田理生カンパニーの公演にも出ていた、ろう女優の今野真知子さんを主役に決めた。
世田谷表現クラブの子供たちは、その直後に自分たちの旗揚げ公演をする予定だったので、音楽の石母田さんにもそちらの公演に協力をお願いして、今回は出ない事になった。
その代わり、音響には恵篤の知り合いの米本実さんが担当する。チラシの題字には、この年私と結婚する事になった妻のお父様に書いてもらう。(彼は金子大弦という一流の書家なのだった。)
それから、昨年の公演の時、照明機材を少しだけ使いたいと思い、タワーホームズの敷地内にある(株)ネルという照明会社に頼んだのだが、社長の好意で雨対策とバラシを手伝ってもらっていた。
そのお礼を言いに伺うと、社長は「実はあの円形劇場で照明を使ってみたかったんだよねー。」と言われ、それならば来年は是非全面協力していただけないかという話になって、強力な援軍を得る事になった。
そして脚本の完成の前に稽古が始まり、恵篤にどうしようかと尋ねると、「うーん、脚本はなくてもいいや。2シーンだけ書いてくれない?」と言われてしまった。
昨年の芝居の時、会場の奥を走る山手線と埼京線の騒音に悩まされた事で、恵篤としては、あまりセリフに頼らない舞台にしたかったのだろう。
構成をどうしようかと悩んでいた私は、がっかりするとともに、ホッとしてもいた。
それからはエチュードを重ねていって、だいたいの流れを作る。私の書いた2シーンをその中に組み込む。
なにしろ主役の女優がろうなので、彼女のきれいな手話が重要な言葉になった。彼女のシーンの心情と言葉は恵篤が持ち込んだ。
冒頭のシーンは去年同様に、椅子取りゲームから始まる。負けた人は自分について語る。「・・・それが私です。」
最後の一人が語っている間に、他の人は椅子代りに置いてあったボックスに入り込み眠ってしまう。
暗闇の中、一人の女が客席からさまよい出てくる。彼女は記憶を無くしている。彼女は眠ることができない。
家族の肖像、記憶の会話、自由についての会話、カーニバル。その合間合間に少女の自問が行われる。
眠りと覚醒を繰り返す人たちに混じり、彼女は自分自身を取り戻していく。
言葉にすると、抽象的で分かりにくいのだが、彼女の手話と演技によって、リアリティーが生まれていく。
終演後に「今回の芝居がいちばん良かった。」と言われたりして、舞台は決して音声言語だけではないんだと、再確認した。
しかし、この野外劇場での三回の公演で、もちろん充実感はあるのだが、その作業の過酷さに、みんな少々ウンザリしてもいた。
音楽や照明のスタッフも格安とは言え、その謝礼や機材費などで、昨年より出費が重なり、結局は大きな赤字を背負い、それをゆかりさん、環ちゃん、戸田さんにも、少しずつ背負ってもらわなくてはならなかった。
私としても恵篤との作業が完成したとの想いもあり、とりあえず、この座組での公演は終わろうと思った。
それに、この公演の直後には、世田谷表現クラブの旗揚げ公演もあり、翌春には子供も生まれる予定で、自分自身の行く末も不透明になっていたのだった。

6、「象とアジサイ」

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世田谷表現クラブの旗揚げ公演は「ISSHO」と言うタイトルで、「青い鳥」をモチーフにして最小限の言葉を使って行った。
石母田さんには「はらぺこロック」と「しあわせロック」の二曲を作ってもらって、いっしょに歌った。
石井に照明のオペを頼み、音響の操作はお母さまたちにお願いした。ゲネプロの時に出演者の一人が風邪で来られなかったり、ドタバタの連続だった。
そんな手探りの舞台だったが、本番はクラブの子供たちがハジけて大盛り上がりとなった。うちの妻など「今回の舞台が一番良かった」などと言い、舞台作りの不思議さを味わった。
2001年12月、つまりこの世田谷表現クラブの旗揚げ公演の直後に、岸田理生が倒れた。
とりあえず一命は取り留めたものの、今後通常の生活に戻れるかどうかは不透明だった。
毎週病院に通い様子をみるも、半身不随で目の神経もやられていて、とても演劇活動などできない状態で、翌年に予定していた公演もキャンセルした。
4月に最初の子供が生まれ、理生さんの名前から一文字をもらって「芽生人(めいと)」と名付けた。
一年半の闘病生活の後、2003年6月28日に理生さんは逝ってしまった。一年半をかけて私は理生さんとの別れの時間を過ごした事になる。
亡くなってからは、理生さんの著作物の管理と普及の為に、「理生さんを偲ぶ会」を立ち上げた。毎年岸田の作品を連続上演する企画も作ったし、戯曲集も出版した。
だが、新たに芝居をする気力も意欲も失われていた。
野外劇三回に出演してもらった矢萩竜太郎君とは、最初中島夏さんの「心と体の教室 杉並クラス」で一緒になった。
その後、田園調布の彼の家で、「お庭でダンス」とか「満月に誘われて」「竜ちゃんと一緒」など、小さなイベントを何回もやっていた。
なんと彼の家では、建て替えにともなってスタジオまで作ってしまっていた。名前を「いずるば」と呼んだ。
理生さんが亡くなった翌年の3月、竜ちゃんのご両親とも相談して、二人でお芝居を作ろうという事になった。それが「象とアジサイ」である。
竜ちゃんに「好きは動物は?」と聞くと「象」と答え、「好きな花は?」と聞くと「アジサイ」と答えたので、このタイトルにした。
理生さんの作品に「猫とカナリア」というのがあって、それに倣って名付けたのだ。
二人の男が偶然出会い、それぞれの身の上を語る。やがて意気投合した二人は、さまざまな遊びを考え出して踊りだす。
そして最後にはそれぞれの生きる道を目指して分かれて行く。
単純なストーリーなのだが、竜ちゃんのピュアーな演技と、米本さんのまるでライブのような音楽が舞台を保証してくれた。
途中で闖入してくる上田葉子さんのベリーダンスも、不思議な魅力で盛り上げてくれた。
偶然見に来ていた評論家の宮田徹也さんが、ダンス評論の雑誌に書いてくれたのも嬉しかった。
そんな風にして、私は少しづつ、岸田理生のいなくなった時間を平常に過ごせるようになったのだった。
その後も竜ちゃんと「いずるば」との関係は続くのだが、この時ほど自分が救われたと思った公演はない。
ようやく演劇に対して、新たな意欲が湧いてきたと言ってもいい。