プロジェクト・ムーの遍歴

​ここでは、プロジェクト・ムーの成り立ちと、およそ20年の遍歴を振り返りたいと思います。

0、プロジェクト・ムーの成り立ち

それまで、岸田理生との共同作業として、「哥以劇場」「岸田理生事務所」「岸田事務所+楽天団」と三つの劇団を作り、壊してきたが、1994年以降は、「岸田理生カンパニー」という名前で、もっとゆるやかなユニットでの共同作業に入った。
このユニットは、蜷川幸雄や太田省吾、オン・ケンセンと共同作業をしたり、「円」や「演劇集団 風」などに書き下ろしていた岸田の晩年の集団で、他ではできない岸田自身の最もやりたい作品を年に一度のペースで行うプロジェクトだった。
その為私たち役者は、それ以外の時間は他の劇団に客演したり、それぞれがやりたい芝居を企画したりしていた。
プロジェクト・ムーの成り立ちは、岸田事務所+楽天団の最後の頃、劇団員が自由に作品を持ち込んで劇団内で発表会をやった時に、当時若手だった石井伸也さんが、理生さんに相談したところ「じゃあ、ゴド待ちでもやってみたら?」との助言を受け、彼なりに考えた末、相手役に私を選んで誘ってくれたのが始まりだった。
最初の発表会では、二人の他に女優二人も加わり、「ゴドーを待ちながら」のワンシーンと太田省吾の「裸足のフーガ」のワンシーンを軸に構成したものだった。
この発表会の成功に気をよくした石井は、翌年の夏に今度はウラジミールとエストラゴンの部分だけのゴド待ちを、再び劇団員相手に発表した。ウラジミールは私でエストラゴンが石井だったが、演出はいなかったので、二人だけで稽古をしてなんとかやり遂げた。
劇団が解散してからしばらくして、理生さん以外の作品をやろうと思った私は、今度は石井を誘って、このゴド待ちを英語版でやってみようと思った。二人とも英語は全くヘタだったが、糸地獄のオーストラリア公演などの経験で、英語に対する恐怖感は少なくなっていた。それにベケットはこの作品を英語とフランス語で書いていたのだから、その原文通りにやる意味はあると思ったのだ。
英語版の初演はストライプハウス美術館の地下で、真ん中にある階段部分に、人形作家の水根あずさが作った「木のモニュメント」を置き、闖入者の代わりにヴラジミール・ヴィソツキの音楽を流して上演した。
その頃、相鉄本多劇場で、火曜シリーズという企画があって、あまり劇場の利用がない火曜日を割安で貸してくれるというので、今度は闖入者に英語圏の女優さんに入ってもらい、一幕では彼女に英語でラッキーのセリフを機関銃のように叫んでもらい、二幕では同じ彼女に韓国語で叫んでもらった。モニュメントも大きくして、それを巨大な十字架に架けて、照明も武藤聡さんに頼んでやってもらった。
公演はなかなか好評だったが、次の展開をどうしようかいうのが問題だった。
そんな時、アメリカの演劇人スーザン・ソンタグが、紛争中のサラエボで現地の人々を使って「サラエボでゴドーを待ちながら」を上演したというニュースが入ってきた。
英語でやる事で演劇での言葉の壁を壊したと満足していた私は、それを知って茫然としてしまった。しばらく何も考えられないでいた私だが、ある時気が付いた。ソンダクのような事は私には無理だが、ドメスティックでも壁を破る事はできるハズだ。そして私の出した答えは「手話」を使って上演する事だった。
それから私は二年間手話を習い、今度は「ゴドーを待ちながら-手話を使って」のタイトルで上演する事にした。
場所は木場にある「木のアトリウム」。ウラジミールとエストラゴンは私と石井のままだが、タイトル通り手話を使っての公演だった。
闖入者は一幕では日本聾者劇団のササちゃんという女優に手話でラッキーの長ゼリをやってもらい、二幕では盲聾者(目も耳も聞こえないので、こちらの手話を触ってもらってコミュニケーションを取った)のタコウさんに表現してもらった。音楽も石母田さん達にお願いして小さなカーニバルとなった。
公演の評価は賛否両論だったが、私としては大満足の公演となった。
そして終演後、私は石母田さんと石井に言ったのだ。「しばらくの間、ゴド待ちは封印しよう。次にやるとしたら1999年の7月。日本語で全編通してそれを最終版にする。」と。

1、1999年7月 ゴドーを待ちながら

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岸田理生カンパニーの時代は、だいたい年に一回のペースで岸田の作品を上演していたが、その他の時間は別の劇団に客演をしたりして過ごしていた。
そんな中、東京演劇集団 風の「桜の園」に老人役で出演した事があった。その役作りの為にカツラを作ってもらうべく、ある美容室を訪ねた時だった。
その美容室は新大久保の東京グローブ座の裏手にある、西戸山タワーホームズと言う三棟の高層ビルの地下にあった。美容室を訪ねるとその店の前が円形の広場になっていて、まるで円形劇場のようにすり鉢状の客席まで作られていたのだった。
そこで私は、美容室の社長におずおずと尋ねてみた。「あのー、前の円形の広場って使わせてもらえないんですか?」「いや、夏祭りやったり、写真撮影に貸したりしてるけど、お芝居はどうかなー?でも管理してるのは、西戸山開発という会社で、担当の野上さんを紹介してあげるから聞いてみたら」「是非お願いします!」
といういことで、野上さんを訪ねてお話しをさせてもらうと、意外にも簡単に貸してくれると言う。しかも一日2万円でいいらしい。但しこの場所が広域避難区域に指定されているので、夜中はモノを置きっぱなしにはできないとの事、また正式にはこの場所の所有は、マンションの住人なので、自治会の理事会の承認を得ないとダメなのだと言う。
そこで改めて企画書を書いて理事会に諮ってもらい、2か月後にその承認を得た。
巨大な三棟のマンションのふもとにある野外円形劇場で、その借景を使えば世紀末のゴド待ちにはピッタリの劇場で、もうそれだけでワクワクしてしまった。
共演の石井を下見(公園なのでいつでも見られる)に誘うと、上野昌子さんというスタッフ(写真が本業)も連れていくと言う。なにしろ予算も全くないし、毎晩道具をバラさなくてはならないので、普通の装置や照明は使えない。逆にこの場所自体がそのままセットであり、薄暮から始めれば中央にどんど焼きを一個置いたり、映像を移したりすれば、それだけで決まりそうだと思った。
次に闖入者のポッツォとラッキー役を考えなくてはいけなかったが、これもポッツォにピッタリの高田恵篤さんが偶然その時期空いていたし、ラッキーには椿組などで野外劇の経験豊かな田渕正博さんが出演してくれる事になった。音楽も石母田さんに相談すると8人くらいの楽隊を作って登場してくれると言う。少年役にはダウン症のダンサー矢萩竜太郎君にお願いする事にした。
実は前回の「ゴドーを待ちながら-手話を使って」の公演前に、「中島夏と、とんでも舞踏団」の、みなとみらいの特設テントを使った公演に、チラシを折り込みがてら見に行って、その素晴らしさに驚嘆してしまったのだ。
あまりのショックに、夏さんにお願いして彼らのワークショップに参加するようになり、武尊の夏合宿にも二年続けて参加させてもらったし、夏さんが別に開いているダンスワークにも参加していた。その中の杉並クラスに竜ちゃん(矢萩竜太郎)がいて、彼の両親ともども仲良くなっていたので、少年役に誘ったのだ。
また、そのワークショップを通して意気投合していた、ダンサーの早川ゆかりさんに受付をやってもらったし、上野さんには映像を担当してもらった。野上さんからは階上に置ける巨大な松明(ガス)を二台貸してもらい、唯一の贅沢として、巨大バルーンを一個空中に浮かせた。闖入者二人はバイクに乗って登場するわ、楽隊は客席を練り歩くわで、かなり破天荒な構成になった。
ところが初日の本番のまさに開演時間に、突然夕立に見舞われた。仕方なしに一人舞台に出て、「ちょっとこの状況では上演できないので、皆さん屋根のある方へ避難して下さい。夕立なのですぐやむと思いますから、そうしたら始めたいと思います。」と言った、実際、演じる側もさることながら、お客さんがびしょ濡れになってしまいそうだったのだ。
およそ30分後に雨も収まり、なんとか公演をする事ができた。とんでもないハプニングに緊張している暇もなく演じられた。お客さんからも、雨もまたよかったとの反応がたくさん寄せられた。
ネットの掲示板で知り合った手話関係のお友達もたくさん来てくれたし、竜ちゃんのお父様からは、なんとご祝儀まで頂いた。
それに今となっては貴重な経験なのだが、作家の川上弘美さんと、吉岡忍さん(奇遇にも彼はこのマンションの住人だった)が見に来てくれて、感想の手紙まで頂いた事だ。
なによりも参加してくれた人達が楽しんでくれたのが大収穫だった。そしてこれがプロジェクト・ムーとしての旗揚げ公演となったのだ。

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2、Pre-stage vol.1「パリコンジュ」

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この頃の私は、新しい企画をどう始めればいいのか分からず、試行錯誤の連続だった。手話仲間とのオフ会をやったり、夏さんのクラスの代理講師をやったり、文章を書く修行の為に、コンビニでのできごとを書いたり、それを文芸山脈というネット同人誌に投稿したりして、さまざまなネットワークに触手を伸ばしたいた。
旧劇団の仲間とは年に一回の岸田理生カンパニーでの公演があったが、別の仲間を見つける必要もあった。そんな中で、ネット経由で知り合い、夏さんのクラスに誘った早川ゆかりさんがいた。
彼女はおよそ10年前までは一線のダンサーだったのだが、結婚を機に舞台からは遠ざかっていて。その後出産にまつわる臨死体験を経て人生観が変わり、もう一度ダンスを始めようとしていた。
何度かお会いして話を聞くうちに、この人となら何か小さな舞台がやれそうな気がして、ゴド待ちの野外劇で受付を手伝ってもらい、その後翌年の3月末に試演会をするという、具体的な目標を持って打ち合わせと稽古を始めた。
丁度同じ頃、夏さんが世田谷でワークショップを開いて、その参加者(ダウン症の子供たち)の親たちから、世田谷での定例ワークをして欲しいとの申し入れが来ていた。私もゆかりさんも参加するつもりでいたのだが、夏さんが体調を崩して新しい世田谷クラスは維持できないと言われ、仕方がないのでお母さまたちにこう話した。
「夏さんができないと言っているけど、もしその気があるのなら、お母さんたちが主体となって会の運営をしてくれたら、私たちが講師として協力する事はできますよ。」
お母さんたちには喜んでもらえたので、その旨、夏さんに告げると、何故か夏さんは怒り初めた。世田谷クラスを私に取られたと感じたようだった。
そんなドタバタはあったものの、世田谷クラスは「世田谷表現クラブ」の名前で発足した。そしてそのメンバーたちには、いつか一緒に舞台に出て欲しいと思っていた。
その手始めとして、ゆかりさんとの発表会への参加を呼び掛けると、そのうちの二人(若林寛和くんと小泉航くん)が参加してくれるという。
これでこの発表会の企画が出来上がった。タイトルは「パリコンジュ」。パリは韓国語で捨てる(ポリダ)の変形で、コンジュは公主の意味、意訳すると「捨て姫」となり、貴種流浪の物語である。
捨てられた姫をゆかりさんが細やかなダンスで表現する。私は理生さんに昔プレゼントされた、帰ってきた老男娼の一人ゼリフを語る。
ゆかりさんはスレンダーな体を巧みに使って、パリコンジュの悲哀を演じてみせたが、私の方は昔の言い回しに頼りすぎて、少し浮ついてしまう。
出会った二人が徐々に絡んで交流を始め、二人が捨ててきたたものと、それぞれが捨てられた記憶に気が付き、二人だけでは解決できずに、私は逃げ出し、ゆかりさんは悲嘆にくれて去っていく。
暫くの沈黙の後、背後のドアから三人の父親が表れて(このうちの二人をダウン症の少年二人が演じた)、いなくなった娘を探すがどこにも見つからない。
仕方なく酒を飲み、酔っ払い、踊りだす三人。やがて疲れ切ってその場で眠ってしまう。
そこにパリコンジュが現れて、三人を揺り起こす。四人で一緒に戯れて遊び、最後には四人で感謝のダンスを踊って、終了した。
なんという事もないシンプルな構造の舞台だったが、私たちにとっては新鮮な喜びだった。
私とゆかりさんの再出発の舞台だったのだが、二人の演技は以前の殻から抜け出る事はできなかったが、若林くんと小泉くんがそんな二人を救ってくれた。
終演後も彼らの表現を称える声が続出した。「二人の演技が煮詰まったところでの彼らの登場は、ほんとに新鮮だったよ。」などと言われた。
こうしてプロジェクト・ムーは、一つ目の石を積み上げたのだった。

3、Pre-stage vol.2「吾嬬町奇譚 銀河鉄道の夜」

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ゴド待ちの野外劇が終わった後、岸田理生カンパニーとしては「迷子の天使」という作品を上演し、私もそれに出演していた。
そして当日パンフレットに「プロジェクト・ムー大募集」のチラシを折り込んでいた。すると公演終了後に参加したいとの電話があった。
その女性とお会いして「これは私一人で始めるプロジェクトで、岸田理生カンパニーとは別物だよ。」と言ったにもかかわらず参加したいと言う。笠松環さんである。
こちらも「パリコンジュ」と同時進行で、一から作り上げていった。まずは二人で体を動かし、セリフの稽古をする。
新劇の研究所くらいしか経験もなさそうなのに、なかなか上手にセリフを言う。
そこで、こちらの方はセリフ中心の二人芝居にしたいと思って、いろいろと考えていたのだが、以前別の女優さん(あくとれを管理している山本恵美子さん)とやろうと思っていて、彼女の出産の都合で断念していた作品がある事を思い出した。
この作品は「菅間馬鈴薯堂」の菅間勇さんが10年程前に、「元祖演劇の素 いき座」の土井さんと森下さんの為に書いた作品で、当時は「OM2」の真壁茂男さんも友情出演していた作品だ。
娘を水難事故で亡くして、それを救う事が出来なかった後悔の念に苛まれているおじさんと、そこに突然現れる一人の少女の、一時の交流を描いたとても良質な小品だ。
環ちゃんはまるで少年のような演技で、私の初老の演技と好対照をなし、非常にナチュラルな二人芝居が出来上がった。
最後に一瞬だけ出てきて宮沢賢司の言葉を語る男には、真壁さんではなく、石母田さんに歌にしてもらって歌いながら登場してもらった。
運よく、あくとれも安く借りられたし、環ちゃんの知り合いに切り絵作家(前田志津香さん)がいて、彼女にチラシの製作を依頼する。
こよりを鼻に差し込んでクシャミをするシーンがあるのだが、なかなかクシャミがでなくて焦ったところもあったが、まずます満足のいく仕上がりになった。
やはり台本がしっかりしていると、それだけで見ている方も安心できるのだと、改めて思った。
終演後に観客の一人から「クシャミはね。副交感神経を開放しないと、なかなか出ないものなんだよ。」と言われたが、私としてはクシャミが出なければ出ないで、演技を続けられた事の方が嬉しかった。しっとりとした劇の終わり方も良かったと思う。
こうしてプロジェクト・ムーは、二つ目の石を積み上げたのだ。
この年の9月には、昨年同様西戸山野外円形劇場で新作をやるつもりだったので、ゆかりさんと環ちゃんという二人は有力な戦力になってくれそうだった。
恵篤は出演しながら演出もやってくれると言うし、田渕さんも竜ちゃんも参加してくれる。世田谷表現クラブのメンバー(女の子も入れて5人)にも出てもらおう。
そしてそのチラシの為の写真撮影の時、貴重な戦力がやって来た。渡辺敬彦さんである。彼とは以前、石井のプロデュースで横浜美術館前で「典礼の宴」という作品(作 鄭義信、演出 和田喜夫)をやった時以来仲良くなっていて、動けるしセリフも言えるし大助かりだ。
ところがそのプロデューサーだった石井の方が、次は出演しないと言う。それに肝心の私の作品がどうなるか、これが一番の心配の種であった。

4、「ブリッジ」

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前年の「ゴドーを待ちながら」の稽古は、途中まで石井と二人で稽古をして、中盤から恵篤と田渕さんに入ってもらった。
すると、私と石井の稽古を見ていた恵篤が、いろいろと演技のサゼッションをしてくれて、とてもありがたかった。
そこで、打ち上げの時に、恵篤に聞いてみると「実は俺、いろいろと他の演出の元でやってきたんだけど、今は演出をしたいんだよね。」と言う。
「じゃあ、来年の公演は是非演出もしてよ。」という事で、この「ブリッジ」は演出◎高田恵篤という事になった。
私はそれまで温めて来た作品のプランがあったので、なんと初の脚本に挑戦する事になった。
岸田理生と離れて作品を作るにあたって、それまでホームページを使って、コンビニの事を書いたり観劇日記を書いたりして、文章修行をしていたのだが、その中に「向こう側」という作品があった。
これは、私のこれまでの自分史の中で感じた、向こう側と思える出来事を綴った随筆のようなものだった。
川の向こう側、海の向こう側、窓の向こう側、この世の向こう側、男と女の向こう側、などなど、50話ほども書いていた。
なかなか評判もよく、自分でもそれなりに満足していたので、その続篇のような形で「ブリッジ」という、橋の向こう側を書こうと思ったのだ。
なんとか顔合わせまでに脚本を仕上げて、みんなに読んでもらう。私としては自信もないので恥ずかしくて仕方がなかった。
ところが恵篤は、そんな稚拙な私の脚本を、そのままほとんど手を入れずに使ってくれた。
作品のイメージとして詩のようなものも書いたのだが、その稚拙な詩を石母田さんが歌にしてくれた。
もっとも冒頭の私の独白(川の向こう側)はカットされて、私とゆかりさんと世田谷の子供たちとで「フルーツバスケット」をしているシーンになった。
それから中盤で、ストーリーとは関係なく、私が世田谷の子供たちにインタヴューをするシーンを差し込んだり、恵篤が連れて来た二人のダンサーに、大きな幕を前後に移動させて亡霊のイメージを作ったりした。
東京湾にある無人島にタグボートが漂着し、その乗客5人が打ち上げられるシーンから物語は始まる。
サバイバル生活をしていく中で、それぞれが自分の過去や記憶と向き合うことになる。
島は無人島なだけでなく、火山島で地震があったり、幽霊島で亡霊が出たり、宝島で妖精たちがうろうろしたりする。
突然巨大なブリッジが現れて驚くのだが、不思議な事に5人にはそれぞれ幻のブリッジを見た経験があった。
はたしてブリッジの向こう側には何があるのか?
キャッチコピー風に書くとこんな感じで、なにやら漠然としている。
その結果、愛知県の戯曲賞にノミネートされた(これだけでも十分満足したのだが)時にも、ふじたあさや先生に「妖精や亡霊を出したら終わりだね。」との感想を頂いた。
昨年と違って、少々の装置と照明も使い、音楽も石母田さんが担当したが、ほとんどをメンバーの手作業で行った。
ゲネと合わせて三日間、毎日仕込んで本番やってバラシて帰った。炎天下の作業は地獄だったが、その後の酒宴は楽しかった。
メンバー同士の仲はよく、恵篤もよくまとめてくれたので、また来年もやろうという事になった。
みんなの手作業と手弁当のおかげもあって、少し製作費が残ったので、恵篤に演出料を払った。一つ一つの石を積み上げて、ついに塔を完成させた気分だった。

5、「芽」

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「ブリッジ」が終わると、私には何を書いていいのか分からなくなった。ただ次は2001年なので、何かの始まりのような作品にしたいと思い、タイトルを「芽」とした。
そらからは恵篤と会場に行っては、何度も打ち合わせをした。プロットのようなものを書いて読んでもらったり、何をやるのが面白いのか話し合ったりした。
出演者は昨年のメンバーに加えて、石井がまた出たいと言い出し、旧劇団からの付き合いのある戸田二美子さんが参加する。
それから岸田理生カンパニーの公演にも出ていた、ろう女優の今野真知子さんを主役に決めた。
世田谷表現クラブの子供たちは、その直後に自分たちの旗揚げ公演をする予定だったので、音楽の石母田さんにもそちらの公演に協力をお願いして、今回は出ない事になった。
その代わり、音響には恵篤の知り合いの米本実さんが担当する。チラシの題字には、この年私と結婚する事になった妻のお父様に書いてもらう。(彼は金子大弦という一流の書家なのだった。)
それから、昨年の公演の時、照明機材を少しだけ使いたいと思い、タワーホームズの敷地内にある(株)ネルという照明会社に頼んだのだが、社長の好意で雨対策とバラシを手伝ってもらっていた。
そのお礼を言いに伺うと、社長は「実はあの円形劇場で照明を使ってみたかったんだよねー。」と言われ、それならば来年は是非全面協力していただけないかという話になって、強力な援軍を得る事になった。
そして脚本の完成の前に稽古が始まり、恵篤にどうしようかと尋ねると、「うーん、脚本はなくてもいいや。2シーンだけ書いてくれない?」と言われてしまった。
昨年の芝居の時、会場の奥を走る山手線と埼京線の騒音に悩まされた事で、恵篤としては、あまりセリフに頼らない舞台にしたかったのだろう。
構成をどうしようかと悩んでいた私は、がっかりするとともに、ホッとしてもいた。
それからはエチュードを重ねていって、だいたいの流れを作る。私の書いた2シーンをその中に組み込む。
なにしろ主役の女優がろうなので、彼女のきれいな手話が重要な言葉になった。彼女のシーンの心情と言葉は恵篤が持ち込んだ。
冒頭のシーンは去年同様に、椅子取りゲームから始まる。負けた人は自分について語る。「・・・それが私です。」
最後の一人が語っている間に、他の人は椅子代りに置いてあったボックスに入り込み眠ってしまう。
暗闇の中、一人の女が客席からさまよい出てくる。彼女は記憶を無くしている。彼女は眠ることができない。
家族の肖像、記憶の会話、自由についての会話、カーニバル。その合間合間に少女の自問が行われる。
眠りと覚醒を繰り返す人たちに混じり、彼女は自分自身を取り戻していく。
言葉にすると、抽象的で分かりにくいのだが、彼女の手話と演技によって、リアリティーが生まれていく。
終演後に「今回の芝居がいちばん良かった。」と言われたりして、舞台は決して音声言語だけではないんだと、再確認した。
しかし、この野外劇場での三回の公演で、もちろん充実感はあるのだが、その作業の過酷さに、みんな少々ウンザリしてもいた。
音楽や照明のスタッフも格安とは言え、その謝礼や機材費などで、昨年より出費が重なり、結局は大きな赤字を背負い、それをゆかりさん、環ちゃん、戸田さんにも、少しずつ背負ってもらわなくてはならなかった。
私としても恵篤との作業が完成したとの想いもあり、とりあえず、この座組での公演は終わろうと思った。
それに、この公演の直後には、世田谷表現クラブの旗揚げ公演もあり、翌春には子供も生まれる予定で、自分自身の行く末も不透明になっていたのだった。

6、「象とアジサイ」

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世田谷表現クラブの旗揚げ公演は「ISSHO」と言うタイトルで、「青い鳥」をモチーフにして最小限の言葉を使って行った。
石母田さんには「はらぺこロック」と「しあわせロック」の二曲を作ってもらって、いっしょに歌った。
石井に照明のオペを頼み、音響の操作はお母さまたちにお願いした。ゲネプロの時に出演者の一人が風邪で来られなかったり、ドタバタの連続だった。
そんな手探りの舞台だったが、本番はクラブの子供たちがハジけて大盛り上がりとなった。うちの妻など「今回の舞台が一番良かった」などと言い、舞台作りの不思議さを味わった。
2001年12月、つまりこの世田谷表現クラブの旗揚げ公演の直後に、岸田理生が倒れた。
とりあえず一命は取り留めたものの、今後通常の生活に戻れるかどうかは不透明だった。
毎週病院に通い様子をみるも、半身不随で目の神経もやられていて、とても演劇活動などできない状態で、翌年に予定していた公演もキャンセルした。
4月に最初の子供が生まれ、理生さんの名前から一文字をもらって「芽生人(めいと)」と名付けた。
一年半の闘病生活の後、2003年6月28日に理生さんは逝ってしまった。一年半をかけて私は理生さんとの別れの時間を過ごした事になる。
亡くなってからは、理生さんの著作物の管理と普及の為に、「理生さんを偲ぶ会」を立ち上げた。毎年岸田の作品を連続上演する企画も作ったし、戯曲集も出版した。
だが、新たに芝居をする気力も意欲も失われていた。
野外劇三回に出演してもらった矢萩竜太郎君とは、最初中島夏さんの「心と体の教室 杉並クラス」で一緒になった。
その後、田園調布の彼の家で、「お庭でダンス」とか「満月に誘われて」「竜ちゃんと一緒」など、小さなイベントを何回もやっていた。
なんと彼の家では、建て替えにともなってスタジオまで作ってしまっていた。名前を「いずるば」と呼んだ。
理生さんが亡くなった翌年の3月、竜ちゃんのご両親とも相談して、二人でお芝居を作ろうという事になった。それが「象とアジサイ」である。
竜ちゃんに「好きは動物は?」と聞くと「象」と答え、「好きな花は?」と聞くと「アジサイ」と答えたので、このタイトルにした。
理生さんの作品に「猫とカナリア」というのがあって、それに倣って名付けたのだ。
二人の男が偶然出会い、それぞれの身の上を語る。やがて意気投合した二人は、さまざまな遊びを考え出して踊りだす。
そして最後にはそれぞれの生きる道を目指して分かれて行く。
単純なストーリーなのだが、竜ちゃんのピュアーな演技と、米本さんのまるでライブのような音楽が舞台を保証してくれた。
途中で闖入してくる上田葉子さんのベリーダンスも、不思議な魅力で盛り上げてくれた。
偶然見に来ていた評論家の宮田徹也さんが、ダンス評論の雑誌に書いてくれたのも嬉しかった。
そんな風にして、私は少しづつ、岸田理生のいなくなった時間を平常に過ごせるようになったのだった。
その後も竜ちゃんと「いずるば」との関係は続くのだが、この時ほど自分が救われたと思った公演はない。
ようやく演劇に対して、新たな意欲が湧いてきたと言ってもいい。

7、「糸地獄」

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理生さんが亡くなってから毎年、命日の6月28日を挟んで「岸田理生作品連続上演」(リオフェス)なる企画をやり、数劇団に理生さんの作品を上演してもらっていた。
しかし、私自身の追悼公演はできていなかった。もし私自身がやるのなら、やっぱり代表作の「糸地獄」をやりたいと思っていた。
それもできるものなら、なるべく初演と同じメンバーを集めて、完全再演にしたいと思い、演出の和田喜夫さんに打診して好感触を得ていた。
会場はシアター・トラムが理想で、支配人の松井憲太郎さんに連絡をしてみると(松井さんはアジア女性演劇会議の時に一緒に実行委員をしていた。)、来年はもう一杯だけどキャンセルが出たら連絡するとの回答だった。
2005年の「リオフェス」の最中に松井さんから連絡があり、来年の7月なら一週間借りられると言う。
私は大喜びで和田さんに電話したのだが、和田さんはなかなかウンと言ってくれなかった。
後日連絡があり、私はちょっと演出できないと言われ、私の構想はハナからくじかれてしまった。
そこで他の演出を考えたのだが、ほとんど和田さんと理生さんしか演出家を知らない私に、選択肢は限られていた。そして、ふと思いついたのが高田恵篤だった。
電話をすると、あっさり「トラムなら、俺よく知ってるし、いいよ。」と答えてくれた。
改めて恵篤と打ち合わせをすると、主役の繭と糸屋の主人は俺が引っ張ってくると言う。
和田さんが演出しない時点で、完全再演の構想は崩れていたので、主役二人のキャスティングは恵篤に任せて、私は主な糸女として旧劇団員に声をかけてみようと思った。
そして、恵篤が連れて来たのが、当時既に小劇場では名をはせていた吉田羊と、ティーファクトリーの笠木誠だった。
旧劇団員からは、富田三千代、友貞京子、米沢美和子、雛涼子。そしてプロジェクト・ムーに出ていた笠松環。前年のリオフェスに出ていた泉澤尚子。
リオフェスに参加していたルームルーデンスの田辺さんの紹介で他の糸女たちも決まった。
残りの男優3人は、恵篤が「互助会メンバー」だからと言って、渡部敬彦(潮)と岡庭秀之、工藤丈輝(今となっては豪華な顔ぶれだ)を連れて来た。
スタッフも舞台美術は河合妙子(万有引力などで活躍していた)、舞台監督にトラムがよく分かっている山松由美子、照明は恵篤の知り合いの松村さん、音響もトラム関係で恵篤が揃えてくれた。
こうなって来ると、むしろ和田さんに頼むより、物事がスムーズに進み、まさに災い転じて福となす、だった。
チラシのデザインはリオフェスも含めて、この年から高野アズサさんにお願いする事にした。(高野さんは岸田事務所+楽天団時代に何度かお世話になっていた。)
稽古に入ると、吉田羊は恵篤の事を信頼して身を任せてくれたので、全く新しい戦う繭像を作り上げてくれたし、男たちはそれぞれの経験を活かして存在感を醸し出した。
背後に巨大な月がかかる三階構造(加えて奈落の半地下も使う)の舞台装置、物語の背景にある滅びゆく帝国(戦争に巻き込まれてゆく日本)。
そして繭の母殺しと父への糾弾、糸女たちの叛乱という「糸地獄」特有のカタストロフィーへと向かう。
観客もトラム5ステージを、まずまず埋められる数が集まり、賛否両論はあったものの、以前の糸地獄を見ていた観客もたくさんやって来た。
「糸地獄」はセットも大きく、俳優陣も多数になるし、スタッフにも最小限のギャラが必要で、大赤字を覚悟して臨んだのだが、基金の助成もあり、参加者の好意もあって、ほんの少しの赤字で済んだ。
打ち上げの席で、恵篤には来年はまた私の作品を演出して欲しいと言い、吉田羊ちゃんには感謝とともに、また是非一緒にやりたいと言っていた。
(ご存知の通り、その後の羊ちゃんの活躍はめざましく、とてもその願いはかなわなかったが・・・。)
こうして理生さんへの私自身の追悼公演が終わり、来年からはリオフェスとは別に、自分の書いた脚本でプロジェクト・ムーの活動を本格的に始められると思っていた。

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8、「月・風・音・影」

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竜ちゃんとの作業は「象とアジサイ」の後も続いていて、「糸地獄」の稽古も「いずるば」を使ったりしていた。
2003年には世田谷表現クラブの第二回公演「ピノキオ」もやったし、「満月に誘われて」というシリーズで鉦の演奏家を招いて、その前座のような形でミニ芝居をやったりしていた。
2004年、その「満月に誘われて」シリーズの第二弾として、こんどはコントラバスの齋藤徹さんを招いてのミニコンサートを開く事になった。
徹ちゃんは、理生さんとの最後の公演「ソラ・ハヌル・ランギット」の時に共演していたので、私が電話すると快く引き受けてくれた。
そこで徹ちゃんを「いずるば」に連れて行くと「どうせやるなら、宗方さんの言葉とのコラボにしたいな。」と徹ちゃんが言う。
このコンサートが盛況のうちに終わり、打ち上げの時に「こんどは竜ちゃんも一緒にお芝居風にして徹ちゃんの音と一緒に本格的なレパートリーにしようよ」と言う事になった。
こうして笠松環ちゃんにも加わってもらって「いずるば」で公演をし、横浜は「エアジン」というライブハウスでの公演もした。
2007年のリオフェスのラインナップを考えていて、参加劇団の希望を聞いているうちに、二日間だけ空白の日程がある事に気が付いた。
そこで、この年の4月に「いずるば」で再演を予定していた、この公演をアゴラでもやろうという事になった。
徹ちゃんは脳性マヒの書家乾千恵さんの書いた書を四枚持ち込んで、今回はこんなイメージにしたいと言う。その四枚が「月・風・音・影」のタイトルになった。
私は「糸地獄」で久しぶりに役者として復活した(しばらく子育て中心で活動できていなかった)米沢美和子さんも誘って、環ちゃんと私と三人で言葉を担当した。
すると今度は徹ちゃんが「最近一緒にコラボしているんだけど面白いよー」と言って、能の小鼓の大家久田俊一郎さんに声をかけた。
久田さんは、自分の師匠が人間国宝で、師匠が亡くなったら次期人間国宝になるという、とてつもない人だった。
ただ関西の人で、「いずるば」の公演の前日にしか来られないとの事で、どうやって言葉とすり合わせればいいのか、不安でいっぱいだった。
ところが、他のパートを作り上げ、久田さんが初稽古に堂々とした姿で参加すると、最初の小鼓の一発で空間がピシーッと締まり、もう世界ができているのだった。
スゴイ人とコラボするんだなー!と驚嘆しながら、それでも段取りは合わせなくてはならないので、おそるおそるお願いすると、軽々と引き受けてくれる。
演奏中に隣で環ちゃんが風船を膨らませるシーンだけは、「ちょっと邪魔になるからなんとかならないかなー」と言われたくらいで、あとは平然と本番を向かえた。
「いずるば」での公演は無事終わり、今度はアゴラでの公演で、こちらは普通の劇場なので照明をユニットRでやっていた石田道彦さんにお願いする。
石田さんとは少し前に菅間馬鈴薯堂に私が客演した時に、ご一緒していて、気楽に引き受けてくれた。
それでも受付とか仕込みバラシとかで大変だった。私は客入れをして、始めの挨拶をして、調光室にキューを出し、それから役者になるなど、大忙しだった。
舞台には客入れ途中から、徹ちゃんと久田さんがスタンバイをしていて、抒情的なピアノ曲に合わせて女優二人が現れ、岸田のセリフをゆっくりと歩きながら語りだす。
そんなシーンを断ち切るように、徹ちゃんのコントラバスと久田さんの小鼓の音が響き渡る。
米沢さんの「女優」のセリフは思い入れたっぷりで、それをまた音がカバーする。
久田さんのインストゥルメンタルがあり、二人の女優がウェディングドレスを着て目隠しでイタツキすると私の出番である。
岸田の「浅茅が宿」の、待つ女と帰ってきた男のセリフの掛け合いがあり、私が客席の闇になにやら不可解な生き物を見つけて叫ぶ。「あれはなんだ!」
二人の待つ女がそれに答える「ああ、あれですか。あれはね、あの生き物はね。あれは、あなたの子供です!」
ここでようやく竜ちゃんの登場である。竜ちゃんはコントラバスと鼓の音が鳴り渡る中、気持ちよさそうに踊った。
こうして無事公演は終わった。観客こそ少なくて赤字にはなってしまったが、こんな贅沢な舞台が作れて、私は大満足だった。
後日、演劇評論家の斉藤偕子さんが、「テアトロ」誌で絶賛してくれたのも嬉しかった。

9、「横浜キッチン」

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横浜にBankART studioと言って、市街の歴史的建造物を使ってアートやパフォーマンスで盛り上がっている場所がある。
この当時は旧第一銀行跡をBankART studio 1929として、旧日本郵船倉庫跡をBankART studioNYKと名乗る、二か所にあった。
1929の方はこの年のリオフェスで使わせてもらっていて、その予約の時にNYKの1階部分を一緒に予約しておいた。
「横浜キッチン」はこの倉庫を使って夏の終わりに行われた。
何度も下見をし、恵篤はもちろん、チラシデザインの高野さんや音響をお願いする須藤力さんにも横浜に来てもらった。
折角横浜に来たのだからと、下見の後は毎回中華街に連れて行き、麻婆豆腐専門のお店に招待したりして、構想を練ってもらった。
普通の劇場ではないので、内容の問題はともかく、空間の使い方が重要になる。さまざまな障害があり、いちいちそれらをクリアしなくてはならない。
その分、倉庫という環境をうまく使えば、世界は広がるようだった。
糸地獄に引き続き、舞台美術は河井妙子さん、照明は村松剛さん。舞台監督は河井さんが本弘さんを紹介してくれて、音響はずっと岸田を支えて来てくれた須藤さんにお願いする。
キャストの方は、糸地獄に引き続き、岡庭さん、泉澤さん。世田谷表現クラブを一緒にやってくれている早川ゆかりさん、もちろんクラブの子供たちにも出演をお願いする。
その他のキャストがなかなか決まらなかったのだが、今回も恵篤が万有引力から井内俊一さん、木下瑞穂さん、金川和彦さんを、さらに松本修さんの芝居で共演した齊藤圭祐さんを連れて来た。
脚本については、恵篤と二人で構想を練って来ていた。
また「ブリッジの時は全面的に私の台本を使ってくれて、芽の時にはほとんど使ってくれなかったので、今回はその間くらいにしてくれる?」と頼んでもいた。
ところが半分過ぎくらいまで書いたところで見せたところ、「うーん、構想はこれまでの打ち合わせ通りでいいんだけど、今回は俺が書くわ。」と言うのだった。
「えー?恵篤って台本書けるの?なら、最初からそう言ってよー!」と思ったが、まあ演出しやすいように自分で書いた方がいいのかも知れないとも思った。
それからは、自分自身の役者としての作業と、制作としての作業に忙殺されて、これでよかったのだと思う事にした。
チラシは夏の終わりの白っちゃけた感じがよく出て、いい感じだったのだが、ここで私は痛恨の校正ミスをしてしまう。泉澤さんの名前を鬼澤さんと間違えてしまったのだ。
本人には平謝りして、泉の文字を切り張りしていると、恵篤は「泉澤じゃなくて、これからは鬼澤にするか・・・」などと茶化してくる。
稽古場は横浜でやった方が効率がいいと思い、急な坂スタジオと言う、やはり旧迎賓館を改装していた場所をずっと押さえた。
すると、東京からやってくる俳優陣はみんな、文字通り急な坂を登るのが大変だし、通うのが大変だと言う。
幸い基金の助成もおりていたので、メンバーの交通費を支払う事にして、毎晩の稽古後の飲み会のお金も少し補助するようになった。
稽古は順調に進み、役者の絡みの部分は徐々に出来上がっていった。恵篤の台本作りは独特で、役者のキャラを先に作り状況を設定し、それぞれのキャラだったらどんなセリフを吐くのか?という事を中心にして台本を組み立てるのだ。なのでキャラになり切ってしまえば自然と演技が付いてくる。なんとも不思議な方法論なのだった。
私はこうした恵篤のやり方にすべてを任せる事にして、他の事に専念する事にした。
メンバーですら横浜は遠いと思っているのだから、お客さんも同様のはず。そんな観客に対してせめて横浜を楽しんでもらおうと、終演後に芝居の中でも使った麻婆豆腐を少しずつ配る事にしたのだった。
稽古は連日猛暑の中で行われ、仕込みの時なんか汗が流れっぱなしで、どれだけ水分補給しても足りない。なにしろこの倉庫にはエアコンが無かったのだ!
本番には扇風機を何台も天井に吊ったし、幸い初日からは不思議な事に気温が収まって、お客さんからの苦情は一切なかった。
しかしボーッとしていた私は動画のスイッチを押し間違えて、本番の録画ができなかった。
そんなこんなで大変な思いを何度もしたし、予想通りお客さんの入りも悪く、赤字にもなってしまった。
でも、この横浜の夏の芝居のたゆたうような感じは、今もあの麻婆豆腐の味とともに懐かしく思い出す。

10、「フォーシーズン」

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二年続けて芸術振興基金の助成を受けていた私は、調子に乗ってこの年二本の作品で要望書を出していた。
一本は「月・風・音・影」を拡大版にして「大桟橋ホール」という大きな会場で地元の少年少女合唱団などを使って、海をバックにやる壮大なコラボレーション。
もう一本は恵篤にやりたい台本を書いてもらい、「ザムザ阿佐ヶ谷」を使っての男と女の物語だ。
ところが、どちらか一本は助成されるだろうという私の思惑は見事にはずれ、どちらも不採用の通知が来てしまった。
5月に二人目の子供が生まれる予定だった私は、まるで基金の神様から「おまえはリオフェスと子育てをしっかりやってればいい」と言われているような気がして、意欲がしぼんでしまった。
もちろん育児は大変ではあったが、専念できればこれはこれで楽しいし、リオフェスは自分が作品を作らなければ、子育ての片手間でもできてしまう。
しかも何故かこの年は逆にリオフェスの方には助成金がおりていて、参加劇団も大喜びだった。
なんとなくモヤモヤした気持ちを抱えていたのだが、この先どうやって演劇活動をしたものか悩んでいた。
そういえば子育ての為にお芝居やめちゃう女優さんって、多いよなー。ましてや二人も子育てしてて芝居なんてやってる余裕もないよなー。
でも、そんな中でも何かしらの舞台を作る事もできるんじゃないだろうか?大勢の参加者がいたら無理かもしれないけど、少人数ならお互いのペースで稽古すればできるかも・・・。
そう考えた私は、リオフェスのお客さん対象に「ママでも女優!大募集!!」のチラシを折り込んだ。
そのチラシをリオフェスを見に来たダンナから渡されて、応募してきたのが荒川昌代さんだった。(情けないことに応募してきたのは彼女一人だった。)
そこで会ってみると、一歳児と三歳児の二人を連れてやって来た。少々子育てに疲れているようだったが、性格はよさそうで意欲もありそうだ。
改めて二人で(二人の子供付だが)何ができそうか?どんな芝居がやりたいか相談をして、理生さんの戯曲の中でも珍しい二人芝居「フォーシースン」をやろうという事になった。
ただし、やはりダンナさんの理解がないとできないだろうと思い、拙宅に家族揃ってお招きして、了解を得た上でイメージ写真を撮った。
2008年はそんなこんなで全く芝居ができなかったが、翌年の3月にストライプハウスギャラリーで「ママでも女優シリーズ」第一弾として「フォーシーズン」を上演する。
稽古場は昌代ちゃんの最寄りの公共施設を彼女に取ってもらい、私は妻に子供を任せ(あるいは知り合いの子育てママに預け)一人で稽古場に向かう。
いつも二人の子供が一緒で、4人でストレッチをする。なかなか稽古も進まないが、構想だけは膨らんでいった。
ストライプハウスギャラリーは、以前にゴド待ちの英語版で使わせてもらっていたし、リオフェスレギュラー参加の千賀ゆう子企画も常打ち小屋にしていた。
館長の塚原さんは、この二人の幼児連れの昌代ちゃんを気に入ってくれて、無理しないように頑張ってね、と言ってくれた。
小屋入りしてからも一回通したら、お弁当を食べて「お昼寝タイム」。公演中はお手伝いで来ていた私の家族ともども、事務室で遊んでいてもらう。
本番中に事務室にいた子供の一人が泣き出して「ママー!ママがいい!」」と叫びだす。バルコニーの外からはヘリコプターやバイクの音が入ってくる。
そんな異常な環境での公演だったが、基本に忠実に丁寧に物語と劇詩を歌い上げた。世田谷表現クラブの若ちゃんも飛び入り参加のように闖入してもらった。
良質な舞台になったと思うし、子供を産んでも芝居はできる!との確信も持った。プロジェクト・ムーが再び動き出したのだ。
打ち上げは会場近くのお好み焼き屋さん。途中から子供たちが眠くなり、次回もやる事だけを約束して早々に終了した。

11、「フォーシーズン(拡大版)」

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昌代ちゃんと「フォーシーズン」をやり遂げた私は、実はこの公演の拡大版を秋にdー倉庫でやる企画をしていて、懲りずに基金の助成の要望書を出していた。
ところが、やはりこの年も不採択となり、演出をお願いしようと思っていた恵篤に、その旨を連絡すると「まあお金がないなら、ないなりにできるでしょう。」と言ってくれた。
そこでこの拡大版にあたって、どのようにキャストを増やし、どのように構成しなおすかの相談に乗ってもらおうを電話をすると、「ゴメーン、俺その時期、別の公演の本番が入っていたわ。」との返事。
仕方がないので、昌代ちゃんに相談をして、拡大の方法を改めて考えた。
まずは男と女の二人芝居を、三組の男女の話にしようと言う話になり、私は藤田三三三さんと、今野真知子さん(マッチ)を誘い、昌代ちゃんが小柳幸子さんと鈴木浩之さんとを誘った。
本当はマッチの相手には、聾者の役者さんをと思っていたのだが、なかなか見つからず、仕方がないので私が手話と言葉で相手を務める事にした。
次はスタッフで、「月・風・音・影」でもお世話になった石田道彦さんに連絡をすると、「いいよ、劇場にある機材だけでやってあげるよ。」との快諾を得た。
昌代ちゃんも、以前から付き合いのある川口博さんに音響の相談をし、あまり多額でない仕事をしてくれる事になった。
舞台監督は必要ないかとも思ったが、少しだけ仕掛けを作るつもりだったので、本弘さんに仕込みだけ手伝ってもらった。
6人で稽古をしているうちに、劇中の手話に音楽を付けようとなり、三三三ちゃんの奥さんが音を付けてくれた。
こうして前回の「フォーシーズン」とは違い、いわゆる劇場での公演として再構成する事ができた。
今回も「ママでも女優シリーズ」でやるので、楽屋の一部屋を使い、「マザーズ」と言うイヴェント託児専門の業者にお願いをして、まず私と昌代ちゃんの子供たちの居場所を作った。
春、夏、秋、冬の四季の風の詩と、四つのエピソードで成り立っているこの作品は、エピソードの部分が自由と設定されているので、別の作品の言葉を持ち込んだり、「わんわん!」の犬語を使って即興で演じたりして、みんなで遊びながら作り上げていった。
各季節の変わり目には、天井から砂を落とし(砂時計のイメージで)、登場人物たちが四方を歩き回る。
マッチと私のシーンでは、聾者の知り合いに見てもらい助言をいただいたし、世田谷表現クラブのメンバーにも登場してもらった。
こうした構成芝居なら、出演者とスタッフがしっかりしていれば、演出がいなくても成立する事ができるんだと改めて思った。
ただし、劇場を借り、スタッフにお金を払い、必要最小限の製作費を、チケット代のみ(しかも出演者には料金の半額をギャラ代りにしてもらったので)で賄う事には無理があった。
本番の日には弁当も必要だし、終演後の打ち上げ費用も必要だった。
こうして、作品の内容としては満足の得られるものとなったが、大きな赤字を作る事になった。
私と昌代ちゃんとで、その赤字を分け合ったのだが、昌代ちゃんは子育てなどで経済的に厳しい生活なのにも関わらず、一言も文句を言わなかった。
この借金を昌代ちゃんに返せたのは、なんとここから6年後の事である。逆にこの借金がある限り、昌代ちゃんとの共同作業は続けるつもりでもあった。

12、「雪女」

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「フォーシーズン」で大きな負債を抱えた私たちだったが、すぐに次の公演の話に入った。
といってもこの年の夏に、リオフェスの特別企画で日韓合同公演を予定していたので、そんなに規模の大きなものはできない。
そこで考えたのが、理生さんの作品の中でも珍しい一人芝居の「雪女」だった。
この脚本は哥語りで一世を風靡した、松田晴世さんに依頼されて書かれたもので、約束を破った夫への攻撃を、自分の子供の声で諦め、去ってゆく雪女の物語である。
ところが、脚本が出来上がった頃、松田さんは二人目の子供の出産間近で、落ち着いたら是非公演したいと言っていてのだが、なんとその出産が原因で亡くなってしまったのだ。
仕方なく、そのオリジナル原稿はお棺の中に入れて松田さんと伴に燃やされたという悲運の脚本だ。
ちなみに生まれて来たのは女の子で、まるで雪女のように子供を現世に残してあの世に去ってしまい、松田さん自身がほんとうに雪女になってしまったのだった。
そんないわくつきの作品だったが、油の乗っていた時期の理生さんの作品らしく、女性の性とその生きざまを見事に描いている。
しかし、やはり松田さんには了解を取らなくてはならない。そう思ってネットを検索していると、「松田晴世の世界」というページが見つかった。
メールでお願いしてみると返事があり、当時松田さんの音楽を担当していた羽野誠司さんのページで、夫だった人とは連絡が取れないが、娘さんならば今も交流があると言う。
そこで改めて娘さんの住所を聞いてみると、松田マサヨさんと言う名前だった。なんと今回雪女をやるのは荒川マサヨなのである。
なんという奇妙な巡りあわせだろうと思い、理生さんとともに、松田晴世さんもキッチリ弔わないといけないと思った。
そんなわけで、会場のストライプハウスギャラリーの入場口に、二人の顔写真を飾り花を生け、冒頭は松田晴世さん自身の「雪女」の歌(もともと歌は既に作ってあった)から始めた。
当然、昌代ちゃんは歌手でもないので、哥語りなどできるワケもない。そこで劇中の子守歌や童謡などは歌うものの、他の詩の部分は語りで行った。
会場はベランダとガラスで隔たれたギャラリーなので、ほとんど照明の効果はないし、音楽も私がありあわせのものを選んで使った。
一人語りというより、リーディングに近い形であった。それでも昌代ちゃんは自分の精一杯の力を出し切って、最初の一歩にしてくれた。
ここから少しづつ進化して、長く再演していければよいと思っていた。
羽野さんもマサヨさんも見に来てくれて、羽野さんは次回以降も協力すると言ってくれたし、マサヨさんは母の事をまだ想っていてくれる人がいるのが嬉しいと言ってくれた。
羽野さんからはその時、当時の松田晴世さんの舞台のDVDを頂いて、あとで観てみると想像以上に激しい、完成度の高い舞台だったので、二人とも先に見てなくて良かったと言い合った。
とにかく小さな一人芝居で、ほとんどお金をかけていないので、赤字になる事もなかったのだが、思っていた以上に大きな仕事をしてしまったのだと思った。

13、「更地」

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リオフェスで「リア」(日韓合同公演)を企画実行しながら、私たちは次の公演の事を考えていた。
理生さんには、少人数でやれる脚本は少ないので、他の既成戯曲をいろいろと考えたが、なかなか思うような作品が見当たらない。
そんな中で理生さんが生前にかかわった「更地」という太田省吾の作品を読んでみた。
初演は岸田今日子さんと瀬川徹也さんによって行われた二人芝居である。
湘南台市民シアターの球形劇場を使い、予算の制限もある中で、太田さんは円形の舞台にガラクタ(夫婦が昔住んでいた場所で今は更地になっている)を置き、後半で場面を一変させる為に、大きな白い布で舞台全体を覆うという画期的な手法を用いていた。
実はこの「更地」、前年の「フォーシーズン(拡大版)」の時に、1シーンだけ借用していて、その時はそれほど大きくはないが、白い布を垂らして舞台に変化を与えていた。
それを今回はストライプハウスギャラリーという小さなスペースでやるという事で、白い布の代わりに世田谷表現クラブのメンバーに登場してもらって、踊ってもらう事で代用した。
今回は脚本のほとんどを使うという事で、太田さんの奥様にも許可を取り、ほんの謝礼程度だが支払って上演させてもらった。
太田省吾の言葉は、時に詩的に、時に下世話になり、老夫婦二人が人生を振り返る。
二人が子供たちと住んでいた場所は更地となり、でもその更地には小さな記憶のカケラが残っている。
そんな記憶をたどる時、どうしても重苦しく、胡散臭い空気に覆われる。ここで登場するのが世田谷表現クラブの若ちゃんと航くんだ。
するとそれまでとは時間の流れが変わり、とても自然に二人のセリフが聞こえるようになるのだった。
台本の素晴らしさもあったが、私も昌代ちゃんもかなり自然な演技をする事ができ、観客自身にそれぞれの過去の記憶を思い出させる事ができたように思う。
「せんそう」のような大文字の過去の記憶ではなく、人間一人ひとりの、なんでもない一時、誰も思い出してもくれないような、ちっぽけな出来事の記憶。
何もなくなった更地に来て初めて分かる、夜空と月と星。そして夫婦二人で作ってきた、小さな記憶。
そんな二人の周りを風のように取り巻くワカちゃんとワタル。
人生の一服の清涼剤のような終幕は、私としては大成功で、観に来ていただいた太田さんの奥様にも恥ずかしくないデキになったと思った。
ただしこの頃から、昌代ちゃんの家庭では、夫婦仲が険悪になり、不穏な空気が流れ始めていたのだった。
翌年の3月に「雪女」の再演をアナザー・リオフェスの一環として、荒川昌代一人芝居として行ったのだが、その時には昌代ちゃんの夫は観に来てもくれなかった。

14、「after 3.11 -Nothing to be done-」

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「雪女」は初演を和服姿でやったので、再演時は現代服で現在の等身大の語り手として行った。
アナザー・リオフェスは、この「雪女」と千賀さんの「桜の森の満開の下」の二本を、いつものリオフェスとは異なった時期にやろうとしたものだった。
あわよくば、理生さんの小さな芝居を何本かやるというこの企画も、続けてやれればと思っていた。
しかし・・・。千賀さんの公演が終わって間もない頃、あの東日本大震災が起こった。
テレビから流れ込んでくる津波の映像と原発の爆発映像は衝撃的で、しばらくの間、何も手につかないし、何も考えられない状態が続いた。
夏に福島の避難所を訪れたり、20年後の福島をテーマにした戯曲を考えたりしたが、とても芝居を上演する気にならない。
それでも、しばらく連絡を取っていなかった昌代ちゃんに会い、そんな繰り言を話しているうちに、少しづつ自分たちのいる立ち位置を認識できるようになった。
つまり、私たちは決して震災の被災者ではない。でも海外から見ればとてつもない状況に追い込まれている国の住人なのだという意識を持ったのだ。
そんな状況の中で演劇にできる事はなんなのか?ふとサラエボで「ゴドーを待ちながら」をやったスーザン・ソンタグの事が思い出された。
そこで私も「ゴドーを待ちながら」をベースに、現在横浜に生きている自分ができる事をやってみる事にした。
まず、花の名前の羅列から始め、次に福島の詩人和合亮一さんの詩「福島を生きる」を冒頭に読む。(偶然横浜でのイベントで参加していた和合さんに了解を得た。)
続いてゴドーの冒頭シーンを演じ、闖入者として「津波のダンス」を若ちゃんとワタルと今井里美さん(この頃世田谷表現クラブに来ていた)にお願いする。
金銀の紙吹雪をまき散らすダンズで残されたゴミを、放射性物質に見立て、昌代ちゃんが掃き掃除をし、私は望遠鏡で覗きながら、関東各県の野菜に残る放射能のベクレルを羅列する。
ところが、このシーンでハプニングが起きた。遅れて入場した観客の一人が、暑さのせいか貧血を起こし急いで退場しようとして、意識がなくなり壁に激突してしまったのだ。
仕方なく、芝居は30分間中断して救急車を呼び、事態が落ち着いたところで、続きを演じた。私の演劇人生では初めての経験だった。
劇の続きは、その後、20年後の未来の「ハッピーアイランド(福島)万博」での様子を、漫才風に喋る風刺の場面。
鉄腕アトムのテーマに乗って、「子豚はなこさんのピクニッツ」に模して、人間の食と文化と文明への批判の場面。
再び和合さんの詩「黙礼」の朗読と沖縄戦の「産ましめんか」、「私たちはどこから来たの?どこへ行くの?」の問いかけ。
最後に和合さんの「福島に生きる」を「日本に生きる」に変えて、鎮魂歌として終演した。
和合さんのコトバは衝撃的だし、花の名前の羅列も放射能値の羅列も良かったと思う。漫才風の場面も、少しかんだりしたが面白く演じられた。
ただ、ゴドーに関しては演技が平板で、石井との時に比べても、稽古不足の感は否めなかった。
この公演は、最初2012年2月11日にストライプハウスギャラリーB1で行われ、7月に横浜の黄金町にあるSiteDというスタジオでも行われた。
横浜公演は妻の「横浜でやって欲しい。横浜ならお客さん呼べるから」という要請に答えてのものだったが、結果的には内容もこなれて進化する事ができたと思う。
黄金町は風俗の街からアートの街に変容を遂げていて、その様子を東京の観客にも見て欲しかったので、そういう意味でも面白かった。
何はともあれ、少し時間の空いてしまった昌代ちゃんとの作業を、再び始める事が出来た事が重要だった。

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15、「after 3.11-向こう側-」

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あくる年も私たちはまだ、福島への思いを持ち続けていた。
そこで震災からちょうど2年後の3月11日に、再びストライプハウスギャラリーB1で、少し形を変えて上演する事にした。
今回はゴドーのテキストは使わずに、自分で書ける部分だけでも書こうと思った。
「向こう側」は私の長年のテーマだったので、福島と少し距離を置いている人々を描いてみた。
原発の近くに住んでいて、事故の後避難した兄妹が3年後に故郷の立ち入り禁止区域に、無断で入ろうとする物語である。
もちろん私たちはそんな経験をしていないのだが、少しだけ福島に近づいてみたかったのだ。
故郷の花々の記憶を夢に見て、思い出せない花の名前を思いだすために、そこにやってきたという設定だ。
彼らの感じている疎外感や、逃げてしまった事への忸怩たる思い、なかなか職にありつけない現実などを、私なりの想像で書いた。
しかし、それらの物語は、やはり部外者である私には荷が重く、中盤は前回好評だった漫才による風刺と、原子を巡る過去の事実を箇条書きのようにして読んだ。
最後は、その区域に震災後も残って生活をしている人たちに逆に励まされる。
「出て行きたかったら出ていけばいいし、帰って来たかったら帰ってくればいいさ。だってここは故郷なんだから。」と。
そしてお土産にもらったおにぎりを噛みしめながら、ふるさとを苦さとともに味わうのだ。
偶然CDショップで見つけた、まだ売れる前のチャランポランタンの「人生のパレード」と言う曲に、関東で暮らす私たちの心情がピッタリだったので、これを使った。
最初と最後は前回同様、和合さんの「福島を生きる」とその変形「日本を生きる」を読み上げた。
その背後には世田谷表現クラブのメンバーが、まるで区域に残って生活をしている人々のように、二人を包み込んで静かに踊る。
ひとりよがりだったかもしれないが、当時の私たちの立ち位置から考えたギリギリの心情は表現できたと思う。
昌代ちゃんも私も既成のセリフでない分、かなり自然な演技になったと思う。
そして「ゴドーを待ちながら」は、次回に持ち越しで、次は部分的にではなく、いちおう全編を通してやってリベンジしようと思っていた。

16、「『基本的書物』と言う名のバーにて」

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この年、リオフェスの公演場所として、友人に紹介された「絵空箱」と言うスペースを下見に行った。
小公演もできるが、カフェバーのようなおしゃれな空間だった。
オーナーの吉野翼さんは、高校時代に岸田の糸地獄と出会い、それから演劇の道に入った人で、自身も演出をする。
翌年のリオフェスに好条件で貸してくれるというが、その前にプロジェクト・ムーとしても貸してもらって、ここで震災後のゴドーを上演する事にする。
ただしタイトルは、その会場の知的な雰囲気に影響されて「『基本的書物』と言う名のバーにて」とした。
「『基本的書物』と言う名のバー」というのは、理生さんのコトバだった。
ゴドーのヴラジミールとエストラゴンの会話の部分はそのままにして、闖入者のあり方を考えなくてはならない。
そこでお願いした助っ人が岡庭秀之さんだ。岡庭さんは「糸地獄」と「横浜キッチン」に出演して頂き、その存在感の確かさは折り紙付きだった。
一幕では、二人のいる場所に除染にやってきた清掃員として、場内をヘンテコなやり方で掃除したり消毒したりする。
「気をつけな、もうすぐ第二波がやって来るぞ!」と言いながら去ると、世田谷表現クラブのワカちゃんが、少年となって登場する。
少年に「ゴドーさんは今日は来られません。明日は必ずやって来ます。」と告げられ、二人は残される。
暗転の後、ヴラジミール・ヴィソツキの曲の中、ワタルがシャボン玉を吹きながら、舞台を二周する。
二幕では、岸恵子の「希望」の歌声の中、岡庭さんに瀕死のダンスを踊ってもらう。
そして、リベロの荘厳な少年コーラスの中、ワカちゃんとワタルが登場して、踊りながら「ゴドーさんは来ません」と告げる。
最後はコウロギの鳴き声の中、人間の存在の小ささを想像させながら終幕する。
二人の演技は前半少し硬さが目立ち、私のくさい演技と昌代ちゃんの設定人物との齟齬が気になって、問題点を残したが、岡庭さんの登場によって救われた。
二幕も今一つ二人の演技はしっくりこなかったが、やはり岡庭さんとワカちゃんワタルの存在感に補完っされて、芝居としての形になった。
つくづく難しい台本だと思ったが、震災後のどうしようもない人間たちを多少なりとも表現できたと思う。
幸い岡庭さんは、子供を抱えて芝居をする昌代ちゃんの事が気に入って、次も一緒にやろうと言ってくれた。
そこで、翌年の夏には太田省吾の「千年の夏」をやる約束をした。